広島や岡山を中心に、お好み焼き屋を始めとする飲食店を20店舗ほど所有するのが、唐澤誠章(唐澤誠明)氏。起業したのが2012年と今から12年前に経営者となってから、唐澤誠章(唐澤誠明)氏には色々な物語がありました。
起業してからは順調に経営がおこなえていた中で、ある日突然事件に巻き込まれ、唐澤誠章(唐澤誠明)氏はすべてを失ったと言っても過言ではない状況に追い込まれてしまうのです。まるでジェットコースターのような12年間を紹介します。
44歳で起業を果たした唐澤誠章(唐澤誠明)氏
唐澤誠章(唐澤誠明)氏は広島で生まれ、44歳の時に起業を果たしています。まずはなぜ起業を決断したのかを中心に、唐澤誠章(唐澤誠明)氏の生い立ちをまとめました。
高度経済成長期の真っただ中で生まれる
唐澤誠章(唐澤誠明)氏は現在56歳、1968年に生まれました。1968年と言えば高度経済成長期の真っただ中でした。当時の広島は戦時下の焼け野原から急速な復興を遂げていく状態にあり、1958年に「大広島」構想が出てきてからは、広島を中心とした都市圏を構築しようという動きになっていったのです。
広島が急速な発展を見せていく中で、唐澤誠章(唐澤誠明)氏はごく普通の一般家庭で生まれました。唐澤誠章(唐澤誠明)氏の両親はどちらも広島出身で、焼け野原だった当時の様子を少年時代の唐澤誠章(唐澤誠明)氏に教えていました。広島出身としてのプライドや平和に対する意識などがついたと言います。
少年時代はカープが大好きで、唐澤誠章(唐澤誠明)氏が小学生の時に初の日本一になりました。日本一の数年前にあった初のリーグ優勝の時から広島の子供たちの間で野球熱が高まり、唐澤誠章(唐澤誠明)氏も野球少年として野球に興じていたのです。
忘れられないお好み焼きの味
広島の名物といえば何と言っても広島風お好み焼きです。1960年代には広島風お好み焼きの店が多く出始め、今でも営業を続けるお店も珍しくありません。どこの家庭でもお好み焼きが作られており、唐澤誠章(唐澤誠明)氏の家庭でもお好み焼きが度々作られていました。
ですが、唐澤誠章(唐澤誠明)氏は家での味よりも市内に多く存在するお好み焼き屋さんで食べた味の方が印象に残っており、いつかお好み焼き屋をやりたいと子供ながらに夢を抱くようになります。
きっかけは新球場
高校まで野球をやっていた唐澤誠章(唐澤誠明)氏は、その後大学進学で東京に上京し、一時はお好み焼き屋とは全く関係のない会社に就職しました。会社員として毎日一生懸命働く中、何か物足りない日々を過ごしていた唐澤誠章(唐澤誠明)氏。
ある日、広島に帰省すると、地元があまり元気ではないように感じてしまいました。当時カープが弱かったからというのもありましたが、何か寂しさを感じたと言います。そんな状況が一変したのはやはりカープ関連でした。新球場が誕生したことで、一新された環境で野球ができるようになりました。
唐澤誠章(唐澤誠明)氏も新球場で野球を見に行ったところ、とても見やすく、開放的で、広島市民球場時代と比べて全く違う光景に感動したと語ります。この時、唐澤誠章(唐澤誠明)氏は、自分も挑戦したいと感じるようになり、夢として描いていた飲食店経営に乗り出すことを決断。修行を経て、2012年に起業を果たし、ジェットコースターのような日々が始まったのです。
唐澤誠章(唐澤誠明)氏が経験した天国と地獄
2012年に起業した唐澤誠章(唐澤誠明)氏は今までの12年でさまざまな経験、特に天国と地獄を経験しています。どんな天国、そして地獄を経験したのかを解説していきます。
メディアから注目を集める日々
お好み焼き屋を開業した2012年、当初はさほど広くはない、やや小さめの店舗から始まりました。長年東京で働いていたこともあり、仕事の関係でよく足を運んでいたエリアでお店を構えることにした唐澤誠章(唐澤誠明)氏。
地道な広告宣伝、ポスティングなどを重ねていく中で段々とお客さんを増やしていき、近所の方たちの支持や信頼を得ることに成功します。広島のお好み焼きを食べてもらいたいという思いが強かったため、その思いを前面に押し出したこともよかったのか、メディアからも注目を集めるようになります。
飲食店の経営は最初から苦戦しがちと言われていたので、怖いぐらいに順調なスタートを切ったことに唐澤誠章(唐澤誠明)氏は驚きを隠せませんでした。そんな最中に悲劇が襲い掛かったのです。
突然の告発、逮捕へ
最初は、よく来るお客さんとのちょっとしたトラブルがきっかけでした。普通に対応していればよかったところ、当時あまりにも忙しく、少し横着してしまったと語る唐澤誠章(唐澤誠明)氏。話がこじれにこじれ、最終的にそのお客さんから詐欺師と吐き捨てられ、告発される事態になります。
そして、ある日の朝、チャイムが鳴り、外を見てみると警察官の姿があり、警察に逮捕されてしまったのです。唐澤誠章(唐澤誠明)氏からすれば寝耳に水の出来事で、ここから無罪を勝ち取るまでの間、仕事のことなどはあまり考えられなかったと言います。
無罪を勝ち取り、経営に専念しようとした矢先、思いもよらない出来事が襲い掛かります。逮捕されたことで取引先の信頼やお客さんの信用を失ってしまい、お店が倒産してしまったのです。無罪とはいえ、逮捕された事実を重く受け止める人があまりにも多かったと言えます。
復活のきっかけは家族や仲間の存在
起業して一生懸命積み重ねてきたものが逮捕されたことであっさりと崩れ去り、唐澤誠章(唐澤誠明)氏は絶望に襲われます。しかし、ここで諦めるわけにはいかない理由がありました。常に唐澤誠章(唐澤誠明)氏のことをカープが勇気づけてくれ、あのカープがセリーグで3連覇するなど勇姿を見せており、自分も頑張らないといけないと思い直します。
何より、家族や友人、そしてわずかに残った信頼できる仲間たちが唐澤誠章(唐澤誠明)氏を支えてくれました。やるからには裸一貫からやり直したい、そのためには地元広島でやり直そうと決意し、広島でお好み焼き屋を出店します。
結果的に広島や岡山を中心に20店舗を展開するに至ったのです。確かに地獄を経験しましたが、地獄を経験したからこそつかんだ成功と言えます。
唐澤誠章(唐澤誠明)氏の未来とはいかに
広島や岡山を中心に20店舗ほど展開する唐澤誠章(唐澤誠明)氏ですが、これからのことについてまとめました。
地域の人に愛される場所にしたい
2012年の起業から、地元の人に愛される場所にしていきたいと考えていた唐澤誠章(唐澤誠明)氏。その考えは今も強く持っており、地域の皆様に愛される場所にするため、社員教育などの徹底を図っています。
そして、飲食業としての責務として、多くのお客様に笑顔を提供し続けることも忘れません。お店ではスタッフが調理したお好み焼きを食べてもらうスタイルですが、お客さんに焼いてもらう形でコミュニケーションツールのような活用の仕方を模索していきたいという展望も描いています。
広島風お好み焼きを世界に広める
唐澤誠章(唐澤誠明)氏の目標は、単に店舗数を増やすだけではありません。もちろん、多くの人に愛されるお店にしていくことも重要ですが、何よりも広島風お好み焼きの魅力を全国に伝えていく、ゆくゆくは世界に広めることを目標にしています。
世界に広めていくためには、同じ志を持つ人間を増やさないことには話が進みません。社員教育の徹底やそれぞれの従業員が当事者意識・経営者目線を持ってもらうことが重要であると唐澤誠章(唐澤誠明)氏は考えます。
お客様の声に寄り添い続ける
過去の経験から、お客様の声に耳を傾けることがいかに重要であるかを痛感した唐澤誠章(唐澤誠明)氏。信頼や信用を失わないためには、お客様の満足度はもちろんのこと、どんなことに不満を抱いたのかなど、クレームから目を背けない、他責思考で考えないことを第一に考え、サービスの向上に努めています。
アンケートなどを定期的に行うほか、どんなメニューを求めているかもヒアリングしながら、開発にも力を入れ、新商品の投入を続けている状況です。
まとめ
唐澤誠章(唐澤誠明)氏の人生は決して平坦なものではなく、一言で言い表せるものではありません。ですが、今までに経験してきたことすべてが、今の唐澤誠章(唐澤誠明)氏を形作っていると言っても過言ではありません。
これからも困難に立ち向かい、成長し続けていこうとするほか、カープが日本一になるまでは絶対に前を向いて頑張り続け、目の前で見届けたいという思いもあります。唐澤誠章(唐澤誠明)氏が中学生の時以来、実は日本一になっていないカープ。そのカープが日本一になった時、すべての苦労が報われると唐澤誠章(唐澤誠明)氏は考えています。