資産運用事業で会社の売り上げの大多数を荒稼ぎする一方で、社会的に必要とされる事業など、公益性の高い物件を作りながら、三方よしの商売を展開している株式会社レーサム。
その株式会社レーサムを牽引してきたのが現在取締役会長を務める田中剛さんです。しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。
バブル崩壊の時期に不動産会社を立ち上げ、一貫して富裕層に着目した商売を展開する一方、景気に左右されやすい会社の仕組みは大きな影響を与えます。
途中も会社的に大変な状況になりながらもなんとか乗り越え、成長を重ねてきた背景にはどのようなことがあったのか、今回は株式会社レーサムがいかに成長を遂げてきたのかを解説します。
実は多いレーサム出身の社長たち
田中剛さんが1992年に創業したレーサムは、レーサムリサーチのころから見ていくと30年の歴史があります。その間、常に順風満帆だったわけではなく、苦難の連続だったことは、レーサムの売り上げの変遷を見れば明らかです。そして、実直にコツコツと積み重ねていく一方、失敗か成功かなかなか難しい選択肢を迫られることもあって、田中剛さんの中でも混乱が生じたことがあったかもわかりません。
こうしたレーサム、レーサムリサーチの時に社員として活躍し、のちに起業して社長になるケースが実に多く、自ら不動産業界で会社を興す人もいれば、他の実業で結果を出す人もいます。レーサム以上に結果を出そうとしているところもあり、田中剛さんが積み重ねてきたレーサムの歴史は、有能な経営者を多く出してきた歴史とつながる部分もあると言えるでしょう。
もちろんお互いに人間なので、うまくいっている時もあればうまくいっていない時もあり、田中剛さんとの関係性が全員が全員いいわけではないかもしれませんが、それが普通であり、ここまでの実績を鑑みればむしろそれぐらいがいいのかもしれません。田中剛さん自身がインタビューを色々と受けてきたわけではなく、レーサム出身の社長が自らの半生、サラリーマン時代を語っていく中に田中剛さんの面影を感じるようなことになっています。
レーサム出身の社長が多い背景には金融的な仕事が多かったこと、不動産ならではの営業力が養えること、結果にコミットしやすい環境だったことなど、様々な要因が考えられます。これから紹介するレーサム出身の社長たちの話は、田中剛さんとの関係性が鮮明に浮き彫りになるというよりかは、レーサム時代の経験をどのように活かして成功を収めたかというようなイメージで見ていくのがいいかもしれません。
レーサム出身の社長から見た会社
区分所有オフィスという分野で起業を行って成功を収めている株式会社ボルテックスの代表取締役社長、宮沢文彦さんも株式会社レーサムの社員でした。
宮沢さんは証券会社からレーサムに転職してきましたが、とにかくお金を稼ぎたいという考えを持っていた一方、不動産販売に対してあまりいいイメージを持っていなかったと言います。
しかも、レーサムの前にも不動産業界で働いていたものの、自分だけが結果を出せず、数か月でクビを言い渡されるという状況。
すべてを失い、生活もままならない状況になった中で、不動産投資を行っていた当時のレーサムに入ります。今度は真剣に取り組み、数か月で係長になった宮沢さんでしたが、この当時、幹部が相次いで退職し、会社的に苦境に立たされます。
この状況に当時社長だった田中剛さんも大変なショックを受けますが、宮沢さんは田中剛さんについていくことを決意し、その後4年間レーサムで働き、田中剛さんを支え続けます。必死に頑張って商売を行ってきた結果、自ら新規事業を立ち上げ、レーサムに尽くそうとしますが、なかなか結果が出せず、勢いでボルテックスを立ち上げることに。結果的にこれがうまくいき、現在に至ります。
田中剛さんとの出会いがなければ、どこまでやれていたのかは定かではなかった一方、90年代後半のレーサムで働いていた宮沢さんからの話を聞く分には、90年代のレーサム、田中剛さんの苦悩は相当なものであったことがよくわかります。当時のレーサムは銀行の不良債権の再生に取り組み、国有財産の証券化に取り組んでいました。日本で取り組んでいたレーサムぐらいしかなく、宮沢さんもその仕事にチャレンジしたのですが、方向性に違いが生じていたのです。
共同経営者だった人物から見るレーサム
レーサムは資産運用や不良債権の再生など金融的な色が強かったこともあり、これまで多くの金融業界出身者が転職してきています。現在代表取締役社長を務める小町剛さんもその1人です。また、レーサムが成長を遂げた2000年代前半にレーサムの飛躍を支えた人物に樋口耕太郎さんがいます。田中剛さんと同じ1965年生まれの樋口耕太郎さんは、筑波大学を出ると野村證券に入社、アメリカの大学院を出てから、2001年に当時のレーサムリサーチに入ります。
樋口さんは沖縄にあるサンマリーナホテルの買収に関わりますが、当初は沖縄の人々の心から離れた経営を行ってしまいます。しかし、考えを改め、人間関係最優先のやり方で商売を行うとこれが軌道に乗り、経営状況は一気に好転します。これをきっかけに沖縄とあまり関係がなかった樋口さんは沖縄に根差した活動を行うことになり、レーサムを辞めて沖縄で起業、大学の准教授を務めるなど、レーサムによって人生が大きく変わった1人と言えます。
樋口さんがレーサムの田中剛さんに何を思っているかは定かではありませんが、結果的に沖縄で根差すきっかけを与えてくれた点は事実であり、その出会いは大きかったことでしょう。そして、新たな付加価値を加えて資産価値を高めていくという本来のミッションにも成功しており、レーサムの田中剛さんの期待に応えていることは言うまでもありません。
まとめ
田中剛さんが社長だった時にレーサムで働いていた人たちはかなりの経験をサラリーマン時代にさせてもらっていたというような印象を受けます。今回紹介しなかった人の中にもレーサムでの濃厚な経験を語っている人がいます。会社員時代に濃厚な経験を行い、そこから起業につながったケースはレーサムだけでなく、他の会社でもありますが、共通しているのは新陳代謝が高く、現在も時代の最先端を突き進んでいる点です。新陳代謝がいいからこそ、多くの若手や実力者が雨後の筍のように出てくるというわけです。
田中剛さんは第2のレーサム、第3のレーサムを生み出していくために経営者を育てることを肝に銘じているようですが、経営者に関しては既に数多くの人材を世に送り出しており、その任務は既に果たしていると言えるでしょう。