船越洋平が考える本当の「やさしさ」とは?やさしさに隠れている部分を解説。

あの人は厳しいとか、あの人は優しいなどと、相手の事を評価する表現がたくさんあります。会社の上司や学校の先生、先輩、両親など目上の人からどのように扱われたかに対して、厳しかった、優しかったなど様々な思いを抱くことでしょう。しかし、その人にとっては優しかったことも、実際はそんなこともなかったケースや、周囲は甘やかしているように見えて当人は全くそのように感じなかったケースが存在します。

人によって捉え方が大きく異なるのはいったいなぜなのか。Webマーケティングの仕事をする船越洋平さんは自分の両親や先輩などからの言葉、自らが後輩に対して接する時の態度などを踏まえ、結局のところ、自分がされて良かったと思ったことをやってるだけで、深く考えている人はいないのではないかと考えていました。

厳しい=愛があるとは限らない

船越洋平さんが社会人になってから知り合った人には、文字通り優しかった人もいれば非常に厳しかった人もいました。船越洋平さんにとって、厳しく接する人のことを今でも好きになれない理由があるそうです。結局他人に厳しい人の多くは自分に甘い事実を身をもって経験しているからです。立場を利用して厳しく接しているので、別に愛情があるわけではなく、いわば手抜きとして厳しく接しているように見えてしまいます。

それを痛感したのはWebマーケティングの会社で働いていた時、船越洋平さんを始め、部下に厳しかった上司が致命的なミスを犯してしまい、社内で結構な問題になった際、周囲に責任転嫁を行い、自分は何も悪いことはしていないと開き直ったのを見た時です。幸い、上層部がその姿勢を疑問視し、その上司は会社を辞めましたが、部下に厳しいのは部下を育てるためではなかったのだと強く思うようになります。

その観点で学生時代を振り返っても、愛情にあふれた教師は決して厳しかったわけではなく、放任主義っぽい部分はあってもしっかりと見守ってくれていた一方、あれやこれやと厳しく指導した教師が実際は自分のミスを一切認めない強情な人間で、生徒のミスだけ鋭く追及するような人物だったり、厳しいことは決して愛があることとイコールではないことを思い知らされます。

優しい=愛があるともいえない

厳しい=愛があるわけではないのであれば、優しければ愛があるかと断言するのもまた難しいものがあります。優しいと思っていても、実際は単に関わりたくないだけで、表の部分だけで取り繕うだけの人物であることが多いです。この人は優しいと思って付き合っていくと実際は冷徹で、ピンチの時は平気で裏切られることがあったと船越洋平さんは振り返ります。

船越洋平さん自身も後輩に対しては「優しい先輩」として接し、後輩からもそのように評価されていたようですが、船越洋平さんの心の中はできるだけ関わりは持たないでおこうと思っていたのだとか。仕事を教えたところで、結局は自分次第な部分が大きく、教えることでその責任を負うのは嫌だったというのです。優しい先輩ではあっても、仕事を熱心に教えるというよりは、周囲がピリつかない程度に、どのように若手として振舞うべきかそのコツを教えていた程度だったそうです。

だから、優しい先輩でありながら、誰かから相談を受けることはほとんどなく、深い話を後輩とやり取りすることもなかったようです。それでも船越洋平さんはその当時、それで十分だと思っており、独立をしてからあれではダメだったと反省します。独立をしてからは後輩に頼られることがなくなったため、もっと後輩のためになることをやってあげればよかったと反省し、今に至ります。

怒らないから優しいとした場合、なぜ怒らないかといえばそれは怒るのが面倒だから。なぜ面倒かといえば費用対効果が悪いと判断したから。損得勘定で怒る怒らないを決めており、そんな考えでは後輩たちが寄り付かなくなるのも当然です。

怒鳴られるのが愛情だと感じる人が意外と多い

船越洋平さんが非常に理解に苦しむ言葉に、「もっと怒られたい」があります。○○さんにもっと怒られたいと近づいて厳しく接してもらうことを喜ぶ人がいます。もっと怒られたいと考える背景に、自らがまだまだ甘く、誰かに指導してもらわないことにはダメだという意識が働いていることが想定されます。船越洋平さんからすれば、誰かに怒られたいなんて1回も考えたことはなく、どういう神経でそのような考えに至ったのか、理解に苦しむと言います。

学生時代、厳しい部活動に入っているとちょっとしたミスや言動ですぐに怒鳴られ、辛い練習をさせられた経験を持つ人が多いです。それによって甘えた気持ちを持っていた自分が根性から叩き直され、結果的に人間としての成長を遂げるとあのやり方で自分は育ててもらったと感謝をするようになります。それは本当に厳しさによるものか、立場を利用して手抜きのつもりで厳しくしていたのか、当人はわかりません。

怒られるうちが華という言葉があり、怒ること怒られることはとてもいいことで、無視されるようになったらおしまいだという考えが根強いです。怒られる側が甘えているのはもちろん、怒る側も甘えている可能性があるでしょう。いわば共依存の関係であり、歪んだ愛情表現ではないかと船越洋平さんは考えます。

本当の優しさは道から外れた時に厳しく接してくれること

船越洋平さんにとって、本当の優しさとは何か。それは、道から外れた時に厳しく接してくれることだと考えています。尊敬する先輩にそのような人物がおり、他の人もやっているような、ちょっとした手抜きを仕事中にした時、すぐに声をかけられ、オフィスの外に連れ出された船越洋平さん。喫茶店に入ると、それからしばらく静かに怒り始め、二度と同じようなことはするなと釘を刺されてしまいます。

他の人だってやっているのに、他の人になんで怒らないのだろうかと釈然としない気持ちだった船越洋平さん。とはいえ、注意を受けたこともあってその後は手抜きをせずに仕事をしていたところ、会社の社長がいきなりオフィスに現れ、船越洋平さんを名指しで指名すると、その仕事ぶりを絶賛し、重要なプロジェクトを任されるようになったのです。若手を抜擢したいけれど、誰を抜擢すればいいだろうかという時に、船越洋平さんの名前が浮上。その場に船越洋平さんの先輩がいたため、社長に推薦する以上は厳しく育てなければならないと考えたそうです。

すべては自分のためだったこと、道を外れそうになった時にそのことを自覚するよう促したことなど、船越洋平さんは先輩に感謝してもし尽せなかったそうです。

まとめ

甘やかすことは実は相手にとって一番厳しい状況を生み出し、何かあった時に誰からも救いの手が差しのべられない環境を作り出すことを、本人はおろか周囲もわかっていません。しかし、厳しく接することで周囲は、これ以上何も言うことはないと静観し、何かあれば救いの手を積極的に差しのべます。将来的に見て甘やかすことは決して優しさではなく、厳しく接することは決して嫌がらせなのではありません。これを熟知していれば人を育てることに関して何の心配はいらないと船越洋平さんは考えます。

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